村上原野追悼旅行記
発端
村上原野追悼のために、11月7日から9日にかけて岡山に行ってきた。
参考:
村上原野の訃報がプログラマーの界隈に知られてすぐに、追悼のために岡山に旅行する話が持ち上がり、10人以上もの人間が集まったが、COVID-19の感染拡大により東京から大人数で地方に移動するのは感染拡大のリスクがあるので自粛していた。
さて、冬も終わり夏もすぎて秋になり、どうやら冬に感染が拡大するらしいとのことで、今年中に行くならばそろそろ行かなければならないと思っていた矢先、妻が岡山に行くというので相乗りすることになった。GOTOトラベルキャンペーンを使い、倉敷のホテルに2泊3日の行程だ。せっかくなのでホテルは少々高くてもおしゃれなところにしようと画像を見ておしゃれそうなところに宿を取った。
11月7日
安かった時間帯の14時半に羽田空港から岡山空港に行く。飛行機の旅はあまり好きではない。荷物の検査がわずらわしいし、空港から目的地まで離れているので、結局所要時間は新幹線とそれほど変わらない。今回は現地での移動手段としてキックスクーターを持っていくことにしたが、問題なく荷物として預けることができた。
17時頃に倉敷の某ホテルに到着した。このホテルは、今回の旅で最悪の要素であった。結局、芸術性と実用性は違うということだ。見た目がよいからといって快適に滞在できるとは限らない。
このホテルは、ホテルの中では最悪というわけではない。むしろいいほうだ。見た目はきれいでおしゃれ、接客態度は申し分なく、部屋も広くて豪華だ。
では何がだめだったのかというと、実用性に劣るということだ。我々は実用性の欠如をこれから嫌というほど思い知らされることになる。
ともかく、17時にホテルに到着した我々は腹ぺこであった。無理もない。昼を食べそびれていたからだ。GOTOトラベルによる地域クーポンが1万3千円分ある我々は、使いみちのあまりないこのクーポンで、普段は食べない高くて美味しいものでも食べよう決めていた。ホテルの周辺の飲食店の中から事前に調べていた、とてもお高そうな和食を出す店に行った。ところが、あいにくとこの店は電子クーポンに対応していなかった。腹ぺこで疲れ切った我々はすぐにホテルに引き返し、ホテル内の高そうな和食レストランに行った。ここで我々はクーポンをすべて使い、かつ差額を支払ってそれなりの値段の和食のコース料理を注文した。でてきた料理は、見た目はよいが味はぱっとせず、そしてなにより量が少ない。摂取カロリーの半分ぐらいは最後にでてきたスプーン3杯程度のかぼちゃプリンがしめていたのではないかと思われるほど量が少ない。我々がそのような和食のコース料理を食べ慣れていないからそう思うのであろうか。それにしても値段に見合った価値はない。
部屋に戻った我々は風呂に入ることにした。このホテルの浴槽はかなりおしゃれだ。ただし浴槽がそのまま据え付けられていて、シャワーカーテンのたぐいも存在しない。単に湯船に浸かるためだけの浴槽だ。浴槽の中に完全に寝そべることができるほどの長さではあるのだが、幅があまりにも細すぎる。そして浴槽に浸かるとどんどんお湯が浴槽上部に取り付けられた排水口から流れていくのでお湯が少なくなる。贅沢にお湯を出しっぱなしにすればいいのだろうが、問題はお湯が供給される場所と排水口はかなり近いので、新しく供給したお湯から優先的に排水されることになる。結局、お湯を出しっぱなしにしようともどんどんお湯はぬるくなっていく。というの、部屋が広くて湯冷めが早いからだ。
からだを洗うには、浴槽の横に設置されたガラス張りのおしゃれなシャワールームを使う。欧米式で壁の上の方に取り付けられた固定式の大型のシャワーヘッドからお湯が出る。日本の風呂にありがちな椅子はない。当然、最初にでてくるのは水なのでしばらく滝行をするハメになる。別途手に取れるシャワーヘッドもあるのだが、こちらはなぜかお湯の出が極めて悪く使い物にならない。
さて風呂から上がってヒゲを剃ろうと洗面台に向かった。壁一面に鏡が設置されていてとても見た目がよい。このホテルの洗面台は大きい。あまりにも大きすぎて鏡から体が離れすぎてしまう。結果としてひげそりをしたいのに鏡を間近で見ることができない。まったくもって機能的ではない。
ベッドにはかなり分厚くてトランポリンのように反発するスプリングマットレスが使われている。これはある種の運動をするのには反発しすぎて都合が悪い。
この部屋は暗い。それもそのはずで、この部屋には間接照明しかないのだ。普通の照明がない。おしゃれではあるが実用性に欠ける。
机にラップトップをおいてホテルの提供するWiFiに接続した。しかし調子が悪い。調べてみると、どうやら帯域は問題がないがパケットロスが頻繁に発生している。これでは多くのWebサイトの利用に支障が出る。
インターネット利用を諦めて今日は寝てしまおうとベッドに移動し、寝そべりながらすこしだけラップトップを操作して気がついた。インターネットの調子がいい。パケットロスも激減した。どうやら机の付近はWiFiの電波が悪いようだ。WiFiの設置にまともな電波的な検証が行われていないのだろう。
11月8日
早朝に起床。妻は朝早くから用事があるとのことで朝食も食べずに出かけていった。私はホテルで朝食を食べてから出かけることにした。ホテルで出てきた朝食はいかにも朝食という感じで品数が多く見た目もよい。肝心の味は、特に何の感想も出てこなかった。まずくはない。美味しくもない。ただ食事というだけだ。
猪風来美術館に移動
岡山や倉敷から威風来美術館に行くには、駅から伯備線の新見行に乗り、方谷駅で降りる。倉敷駅からの所要時間は50分だ。電車から見る風景はどんどん田舎になっていき、そして山になっていく。倉敷駅から電車に乗ったときにはそれなりにいたはずの乗客が、ふと気がつくといなくなっている。その時乗っていた車両には実に私一人しか乗っていなかった。方谷駅に降り立ち、電車が行ってしまうのを見ると、寂寥を覚えた。駅に降り立ったのは私一人だ。駅には誰もいない。見渡す限り人間がいない。当然ながら無人駅だが、かつては有人の駅であったことを思わせる設備があった。
山田方谷について
駅にあった看板を読むと、どうやらこの方谷駅は1928年に設置されたそうだ。方谷(ほうこく)というのは実は人名で、地元の名士である山田方谷に由来する。当時の駅名というものは地名に限るとされていたが、地元民の山田方谷を慕う声が大きく、「方谷」というのはこの辺の地元民が使っている山の名前であってすなわち地名である、決して人名ではござらんという屁理屈で無理やり押し通した駅名であり、方谷駅というのは日本で人名由来の最初の駅名なのだそうだ。
そこまで地元民に慕われていた山田方谷というのはどういう人物だったのか。山田方谷は幕末の備中松山藩に使えた漢学者の武士である。藩の財政を立て直すために領主勝静の全幅の信頼のもとに、質素倹約、賄賂の禁止、藩からの持ち出しのある幕府の役目から辞退といった手法で備中松山藩の財政を立て直すことに成功した。
その他にも、身分性別にかかわらず誰にでも学問を施したり、航海術を復活させて水路で物資を輸送したり、武士に農業をさせたり、武士農民混合のイギリス式軍隊を作ったりしている。
上の文はさらっとかいたが、そのどれもが当時の常識ではありえないことなのだ。
当時はそのへんの農民や子女ごときが学問を学ぶ必要はないし教えてやるつもりもないという考えが常識であった。方谷は自ら身分性別にかかわらず誰にでも学問を教えていた。航海術もそうだ。江戸幕府は300年の長きに渡って日本を平和に治めていたが、それほど長く平和が続いたのは、国内の戦力を削ぐのに力を注いでいたからだ。例えば全国の藩に無駄な労役を強いたり、参勤交代をさせたのも、戦争ができるだけの余力を持たせないようにするためだった。特に輸送力も人工的にそいでいた。そのため、輸送は主に陸路で行われ、水路は使われなかった。このために航海術というのは江戸時代の日本では失われた技術であった。幕末から明治にかけて水路を復活させるときに、まともな航海術の知識がなかったのでそれはもう大変な試行錯誤のもとに航海術を復活させている。最初は陸地にそって移動し、嵐が来たらマストを切り落とすような無茶なことをしていた。用意に座礁するし、嵐が去った後の移動手段がなくなってしまう。
武士が農業をするというのもありえない話で反発も多く、方谷も藩内から憎まれて暗殺未遂にまで発展した。
武士農民を混合したイギリス式の軍隊も当時の常識ではありえないことで、後に長州藩の奇兵隊や長岡藩に参考にされている。
このような当時の常識に反する反発も多い様々な政策を、備中松山藩の藩主、板倉勝静の全幅の信頼のもとに実行していた。
さて幕末維新にかけて、朝廷側と幕府側で戦争が起こる。山田方谷は時代の趨勢から幕府による政治体制が終わるのは必然であると考えていたが、藩主勝静は松平定信の孫であり先祖を徳川吉宗に遡ることができる徳川家の血筋の人間であり、時代の趨勢はともかく血筋と義によって幕府側についていた。徳川慶喜と行動をともにして備中松山藩を留守にする中、朝廷側からは備中松山藩は朝敵であるとされ侵攻されることになった。
留守を守る方谷は、領民が戦火に巻き込まれることを避けるため、自らの権限で藩主勝静を勝手に隠居させ、祖父の子孫である板倉勝弼をにわかに藩主とし、朝廷側に降伏。備中松山藩を無血開城して領民を守ったのだ。このとき、勝弼は一時的な藩主であり勝静の嫡男である勝全が戻ったときは家督を譲るという起請文を勝弼に書かせていたが、やがて赦免されて戻ってきた勝静からは、「主君は簡単に改めるものではない。ましてや朝敵となった勝全に継がせるべきではない」と起請文を破り捨てられている。この藩主であるからこそ方谷のような人物を重用できたのである。
これを考えると、地元民が山田方谷を慕うのは当然の話で、文字通り命の恩人だからだ。もし山田方谷がいなかったのならば、ぜひ方谷を駅名にと強く押す地元民の大部分は死んでいたり、また行きていたとしても地元には残っていなかっただろう。
猪風来美術館への道のり
話がそれた。方谷駅には何もない。山の中に設置してある古びたコンクリートのプラットフォームだ。やや廃墟感のある薄暗い階段を降りて改札に向かう。駅員はいない。改札と駅舎らしきものはあるが誰もいない。駅の前には交通会社らしき建物があるが、あまりに古びている上に車は1台もない。駅前に喫茶店の名残のような建物はあるが、営業していたのは何十年も前の話だろう。駅舎の半分は駅資料館になっているようだが、残念ながら鍵がかかっていて入れなかった。窓から見ると本が二冊と駅の模型があるのみだった。
さて、方谷駅から猪風来美術館に移動する。駅を出て、橋を渡り、道なりに北上すると左に分岐する坂道がある。その坂道をまっすぐ進むと猪風来美術館に着く。途中、看板がいたるところにあるので迷うことはない。私はキックスクーターを持っていったが、坂道のために1/3程度しか役に立たなかった。そして、前日の雨と落ち葉で滑るのでエアタイヤが必須だ。キックスクーターを持っていった目的は帰りのダウンヒルなので、行きにそれほど役に立たないことは覚悟の上だ。道は舗装されているのが、夏はヤブ蚊が多く、冬には雪が積もるという。11月の初旬は暑くもなく寒くもなく丁度いい気候であった。東京から村上原野の弔いに来て時間と体力があるのであれば歩いていくことをおすすめする。
猪風来美術館到着
美術館に上がる最後の分岐路を登ろうとしたところで、後ろから車がやってきた。村上原野の母むらかみよしこと、縄文土器製作に入門する弟子が一人乗っていた。
猪風来美術館は廃校となった学校を利用した美術館だ。展示品のほとんどは村上原野の父猪風来の縄文土器、妻むらかみよしこの作品と、その息子である故村上原野の作品で占められる。
村上原野の作品は3歳の時に粘土に押し付けた手型足型から始まり、小学校の頃のセミの抜け殻などがある。いずれも土器や陶器である。作品はやがて出土した縄文土器の複製品になり、そしてオリジナルの造形品になっていく。村上原野の最後の作品は「渦巻く翅(つばさ)のヴィーナス」だ。
作品を見ていると、猪風来がやってきた。縄文土器について前々から思っていた疑問である、なぜ火焔土器のような複雑で実用的ではない造形をするのかという質問をしようとする私を遮り猪風来は言った。「おまえはまだ縄文の心を分かっておらん。まず作品をすべて見ろ。話は後からだ」
猪風来の作品を見ると、とにかく縄文土器で大きな作品を作ろうしているように思える。これは芸術性というより技術的な挑戦に思える。
粘土と熱変性について
粘土を加熱すると化学変化が起こり、詳細は省くが、結果として硬質化する。このとき、熱が高いほどより激しく変性する。土器の技術の歴史は、より高い熱を実現する歴史でもある。縄文土器は低温(600-900℃)で作られる。これは、縄文人が熱を実現する手段として野焼きしか使わなかったためである。より高い熱を実現するためには燃焼中に土や藁をかぶせるとか窯が必要となる。
野焼きの低い温度で実用的な土器を作るためには、適切に調合した粘土のほか乾燥、磨きなど様々な技術が必要になる。縄文土器を作る技術は失われていたが、3,40年ほどまえに猪風来が試行錯誤の末に再発見した。
大きくて複雑な造形には時間がかかる。しかし粘土は乾燥してしまうと造形ができなくなる。そのため、猪風来の大きくて複雑な造形の作品は、パーツごとに造形して組み合わせる形で作られている。あるいは造形は質素だがとにかく大きな物体になる。
猪風来によれば、縄文粘土が造形可能な期間は7日間。濡れタオルで保護にすることによりもう7日間ほど伸ばすことができるのだという。造形可能な製作期間は2週間だ。
これを考えると、追加の造形は追加のコストである。しかも造形可能な期間が限られるのであればなおさらだ。複雑な火焔土器が芸術品とか祭器などというのであればわかるが、すべて実用品であり、煮炊きに使われていた考古学的証拠が確認されている。なぜなのか。
猪風来は語り始めた。
猪風来による土器の日本単一発祥説と縄文土器の文様の理由
数万年前、海面は今より低く、日本列島は大陸と地続きであった。日本列島と大陸の間は徒歩により気軽に往来ができた。人類最古の土器は日本で発明され、世界各地に伝播した。
やがて海面上昇により、日本列島は大陸から隔絶され、往来が難しくなった。この結果、大陸で農耕技術が発展しても、日本にはなおもしばらくは縄文文化が続いた。日本は豊かな土地であり、農耕をしない狩猟採集文化では、資源を奪い合う必要もなかった。粘土もそうだ。土器に必要な粘土は火山灰からできるのだが、これは日本十どこにでもある。現に縄文時代からは対人武器は発掘されていない。対人武器は弥生時代以降から見つかっている。
縄文土器の文様に現代人の考える実用的な価値はない。しかし、縄文人には宗教的理由があった。縄文土器の底には小さな突起がついている。これは乳房型の尖底土器であり、実際乳房を表現している。そもそも縄文土器の作成者は女性である。縄文時代は母系社会であった。農耕により土地所有という概念が生じると文明は父系社会に移行するのだが、縄文人は農耕をしておらず母系社会だったのだ。
文様の意味はなにか。これは食物を煮炊きして食べるときに命に感謝するための表現である。具体的には大地から上に上がるエネルギーを表現するために下は質素に縦線になり、天から下に下るエネルギーとぶつかるところで渦を巻き、勾玉を生ずる。勾玉は胎児の形を表現している。土器のここをみろ。ここに勾玉がある。さらにこの部分の空洞も勾玉の形になっている。
土器の複数発祥説
土器は複数の地域で独立して発明されたという説もある。少なくとも、東アジア、メソポタミア、北米で独立して発明されたとされている。
文様と勾玉の意味論
縄文時代から大量に出土する勾玉の形状が何を表現しているかについては諸説ある。胎児の形を表現しているというのも説のひとつだ。。縄文土器の文様が何を意味するかについても同じだ。諸説あるが、いずれも考古学的な証拠がない。縄文人は文字を持たなかったために、その意味は失われてしまった。
猪風来の説は裏付けする証拠がない。猪風来によれば、縄文人と同じ竪穴式住居に暮らして生活すれば、体験として勾玉や文様が必要であることが実感できるということだが、無理がある。
第一、縄文人と同じ体験を現代人がすることは無理な話だ。猪風来は冬の北海道で竪穴式住居に夜寝るときの経験を語った。では猪風来は縄文人の衣服を着ていたのだろうか? 否、現代の防寒具を着ていた。工房では弟子が縄文土器を作成していた。なめらかに回る現代のろくろの上で作業をしている。そんな加工精度の高いろくろを縄文人は持っていなかった。実際には濡れた落ち葉の上で回していたようだ。粘土は乾燥を防ぐためにビニール袋にいれられている。ビニール袋などというものは縄文時代にはなかった。作成中の縄文土器は乾燥を防ぐために濡れタオルがかぶせてある。現代のきめ細かい木綿やポリエステルのタオルを縄文人は持っていなかった。
村上原野のこと
村上原野は猪風来が縄文人の心を会得するために北海道の竪穴式住居で暮らしていたときに生まれた。北海道の原野で生まれたので原野と名付けられた。芸術家の家庭に育ったためか、子供の頃の作品が残っている。最初の作品は粘土につけた手形と足形だが、小学校から高校にかけては粘土による造形作品がでてくる。村上原野本人による当時の説明文には「自家製の粘土を使って作った」と書かれているが、一般のご家庭には陶芸用の粘土はないし窯もないものだ。ましてや家が竪穴式住居となると、一体どのような学校生活を送っていたのだろう。
村上原野は高専に行き、卒業後は数年ほど雇用されて工業製品の製図などの仕事をしていたようだ。しかし、粘土をいじっている方が楽しいと父親である猪風来に師事して縄文土器芸術家となる。
猪風来「わしは最初、反対したんだ。許さんと」
無理もない。芸術家として食べていくのは難しいし、ましてや縄文土器の陶芸家として食べていくのは相当に難しいに違いない。
最初の10年は発掘された縄文土器の模倣をしている。これは修行であり、こうして基礎を理解した後に、とうとう自分の作品を作り始めた。
縄文土器の技術は猪風来が一通り再発見したが、村上原野によって考案された技術もある。製作期間の延長だ。
すでに書いたように、縄文粘土は乾燥によりすぐに造形ができなくなる。現代の便利なきめ細かい濡れタオル包んで乾燥を防いでも、せいぜい造形にあてられる製作期間は2週間だ。村上原野は性質の違う複数の粘土を使い分けることにより、製作期間を一ヶ月にまで伸ばすことに成功した。
また、村上原野独自の造形として、土器の表面から外側に向かって伸びるような造形をする縄文土器に、外に向かって伸びた後にまた内側に戻るような造形を考案した。
猪風来も今年73歳になり、そろそろ引退を考えていて、美術館の運営を引き継ぐ予定であった。
まだ、アカデミア方面から、縄文土器を制作する時の体の動きや目線などをキャプチャーして解析しようという共同研究の話が持ち上がっていた
そして、アメリカで学問や芸術、あるいは趣味として陶芸の盛んな地域があるらしく、縄文土器の技術を学びたいと言われていて、アメリカにも拠点を作る予定だった。
私生活としても実に恵まれていた。ちょうど結婚相手が見つかり、まさに同居を始める直前であった。
あらゆる方面からの追い風を受け、将来にか輝かしい展望が待ち受けている中、村上原野は自分の芸術家としての価値を証明する渾身の代表作を作ろうとしていた。そして、頑張りすぎてしまったのだ。
猪風来「原野は北海道の生まれ育ちで、寒さに強かった。あいつは工房で暖房を使わなかった。土器の乾燥を防いで制作時間を稼ぎたいという理由でだ。原野は夜に一人で作業した。夕方に起きて一晩中作業していた。そういうことを一ヶ月も続けていた」
「わしは原野がなにかいままでにないすごいものを作っているということを感じていた。自分を代表する作品を。原野が何を作っているかは知らなかった。製作中の土器は濡れタオルで保護してあるし、わざわざ製作途中のものを見ようとはしなかった。亡くなる2日前、どうだと聞いたら、「もう一息だ」という。次の日にまた聞いたら、「もう一息」だという。これはもうそろそろできるなと思い、明け方に見に行ったら、倒れていた。手にまだ竹べらを握りしめたまま」
「兆候はあったんだ。亡くなる数日前から肩がこるといっていた。しかし気が付かなかった。陶芸家というのは作業柄、肩がこるものだから、いつもの肩こりだと思っていた」
「クモ膜下出血。医者の見立てでは即死。仮に即死ではなかったとしても、意識は数秒も持たなかっただろうということだ」
「原野は台の上に立って、腕を前に突き出して作業していた。そのまま倒れた場合、自然に前に倒れるはずだ。作品を壊してしまう。原野の体は台から離れた場所にあった。発作が起きたとき、原野はとっさの判断をして、横っ飛びしたのだ。作品を守るために。原野はこの作品を世に残すことを選択したのだ」
作品は99%完成していた。おそらく最後に上の方も穴を開ける予定ではあったのだろう。また倒れたときに竹べらで荒々しくひとかきした後が残っていた。
しかし縄文土器は造形して終わりではない。その後一ヶ月以上毎日磨く作業があり、そして何より難しい野焼きが待っている。原野の最後の作品は72時間かけて焼き上げられた。普通、小さい作品は2,3時間、大きなものでも8時間で焼き上げるという。絶対に失敗が許されないこの作品は弟子を総動員して交代制で3日間かけて焼き上げたそうだ。完成品を他の作品と比べると、確かに焼きかげんにむらがなく均一な色合いになっている。造形の難しい縄文粘土で作ったとは思えないほど複雑で立体的な造形の作品だ。
もし体の不調に対して早めに病院で診察を受けていれば、長期間の作業を避けていたならば、暖房を使っていたならば、もしそばに人がいて早期発見が可能な昼間に作業していれば・・・今更言ってもはじまらない。教訓としては、体の不調を自覚したら些細なことでも病院に行き、長時間労働はせず、冷暖房にも気をつけた上で、孤独に作業せずに倒れたときにすぐに発見されるよう周囲に人を配置しておくべきなのだろう。リモートワークで自宅で孤独に作業しがちな昨今、考えるところがある。
倉敷に戻る
朝早くから3時頃まで話し込み、帰りは車で方谷駅まで送ってもらった。キックスクーターでダウンヒルするというのも興味深かったが、1時間に一本しかない電車に間に合いそうにないのでご厚意に甘えて送ってもらうことにした。方谷駅から電車に乗る場合、電車のドアは自動で開かない。外側についているボタンを押して開ける。そして整理券を取る。途中の無人駅で降りる場合は電車の中で運賃を支払うが、有人駅の場合は改札の窓口に整理券を持っていく。電車の外から見える景色はみるみる山間から田んぼ、そして都会になっていき、すぐに倉敷に戻ってきた。
まだ時間があるので倉敷にあるボルダリングジム、ロックスクライミングジムに行く。
倉敷市・岡山市 クライミング ボルダリング rocks CLIMBING GYM(ロックスクライミングジム)
途中、リサイクルショップがあったので立ち寄ったところ、バランスボードとキャスターボードが安く売っていたので購入した。
ロックスクライミングジムはなかなかいいジムだった。トップロープ、リード、ボルダリングができる。課題は筋肉でごまかしがきかないようにうまく作られている。店員にビレイをしてもらい久しぶりにトップロープもした。やはりロープクライミングは面白い。東京でもロープクライミングしたいのだが、ビレイが必要なためなかなか機会がない。まずビレイできるパートナーを見つけ、日程を合わせなければならない。難しい。
11月9日
だいぶ寝坊した。ホテルの朝食の時間を過ぎている。我々は空腹のままホテルをチェックアウトし、帰りの飛行機の時間まで、倉敷の美観地区を見て回ることにした。
私の美観地区に対する感想としては、建築様式の違うシャッター商店街という感じがした。多くの建物は閉じているかテナント募集中。今日は月曜日なので特に営業していない店が多い。
空腹の我々は飲食店をさんざん探し回った挙げ句、結局安い焼き肉を食べ、それでも残った時間を駅前のショッピングモールで過ごした。旅の終わりというのは不思議なものだ。こうして身は岡山にいるというのに、数時間後には東京の自宅に戻っているわけだ。
数時間後、特に何事もなく東京に帰宅した。