ここらでもう一度マストドンについて語っておくか
オレが間違っていたぞ、清水亮。
なんで「オレが間違っていた」と最初に書けないのか。つまんねープライドもってんなー
-- 清水亮
前回、前々回と、マストドンについての批判を書いた。結論を先に書くと、私の技術上の懸念以外の懸念はすべてあたらなかった。
本の虫: マストドンが直面している問題はすでにP2P技術が15年前に遭遇した問題だ
そうこうしていると、ドワンゴがマストドンのインスタンスを立ち上げた。
これはなかなか興味深い。というのも、私はドワンゴに雇用されているので、ドワンゴが悪意を持っているかどうかについては内部の情報があるため判断しやすい。マストドンはインスタンスの管理者が悪意を持っているかどうかが極めて重要だ。内部の情報をもって判断した結果、今は信用できそうだ。
そこでものは試しとアカウントを作ってみた。
そして、感動した。これだ。久しく忘れていたインターネットがここにある。何ということだ。
そこにあったのは、黎明期の怪しげな雰囲気を持つインターネットだった。今から20年ほど前の2chやIRCの雰囲気だ。インターネットよ、私は帰ってきた。
ともすればインターネット老人会とも揶揄される環境がそこにあった。我々はぬるぽにガッされ、ゴノレゴが吉野家のにわか客に文句を言い、ペリーに開国を迫りミキコにピアノを教えるあの空気が再現されていた。
そうだ。当時もこうして、夜遅くまで寝不足になりながらインターネットを閲覧したものだ。そうこうしているうちに、誰かがセンシティブなコンテンツのフラグが立てられた画像が投下される。みてみるとうまそうな飯テロ画像であった。「これはけしからん、無修正じゃないか」と文句を言うと、こんどはモザイクをかけた飯テロ画像が投下される。
開始当初のマストドンのドワンゴインスタンスには優れた点が二つある。まずエロが投下されないことと、誰も煽り合わないことだ。放っておいても人はエロを探すし、勝手に煽りあう。そういうものだ。
インターネットからきらめきと魔術的な美がついに奪い取られてしまった。2chや、IRCや、アングラサイトがユーザー達と共に中二病を誇り合い、徹夜でチャットにあけくれ、不毛なネット議論を繰り広げる。そんなことはもう、なくなった。
これからのインターネットユーザーは、安全で静かで、物憂いスマフォを握って、画面を受動的にタップ操作のみする。一方何千というコンテンツ達が、アルゴリズム一つで機械の力によってフィルターされ、検閲される。これから先のインターネットは、安全と引き換えにその娯楽性を完全に殺すだろう。
やがてそれぞれのプラットフォームには、大規模で、限界のない、一度発動されたら制御不可能となるような検閲のためのシステムを生み出すことになる。
人類ははじめて自分たちが手に入れた自由な情報流通手段を、みすみす自ら手放すことになる。これこそが人類の栄光と苦労のすべてが最後に到達した運命である。
結局、Twitterなどの大手のSNSはあまりにも有名になりすぎ、あまりにも大衆化しすぎたために、つまらなくなってしまったのだろう。大衆受けを目指すと、きらめきと魔術的な美が失われてしまうのだ。
この歴史は連続している。パソ通が、あめぞうが、2chが、ニコニコ動画が、開始当初はこの黎明期特有の怪しいきらめきを有していたが、大衆化に伴って消失してしまったのだ。これはどうしようもないことだ。大衆化の過程で、より多くの、より幅広い人間に受け入れやすくなり、その結果利益を出すことができ、その利益をプラットフォームの維持と拡張に使うことができる。大衆化をしない場合、利益が出ずにプラットフォームが継続できないとしたら、結局大衆化するしかない。
もちろん、これはドワンゴのマストドンインスタンスとて例外ではない。いずれはユーザーが集まりすぎて大衆化して万人受けにはなるが陳腐化するか、ユーザーが集まらず過疎化してひっそりと消失するかのどちらかになるだろう。どちらにしても、現在のこの魔術的な美は速やかに失われるだろう。
せめて今は、この雰囲気を楽しむとしよう。
さて、ポエムを書くのはここまでにして、技術的な話をしよう。
マストドンと元になったGNU Socialは、OStatusというプロトコルを使っている。このプロトコルの詳細な内容を筆者は知らない。
というのも、OStatusプロトコルの網羅的なドキュメントが存在しないからだ。5年前は存在していたのかもしれないが、散逸してしまっている。本来ドキュメントをホストしていたはずのURLのドメインの所有者が変わって全く関係ない内容になったりしている。
それでも散らばっているドキュメントを読んでキーワードを拾っていくと、ユーザーの発見にWebFinger、購読にPubSubHubbub、メッセージのやり取りにSalmonを使っていることなどがわかった。あるいは、OStatusプロトコルという単一のものはなくて、細分化されたプロトコルの寄せ集めでできているのかもしれない。
さて、プロトコルの技術的な詳細は後で調べるとして、筆者の理解する限りでは、OStatusプロトコルはスケーラビリティの問題を抱えている。おそらく現在の設計では、規模が拡大したときに、負荷がとても増えていくはずだ。なので、Twitterを代替するほどの規模で成立できるかどうか疑問だ。
また、ユーザーの認証がサーバーに結びついているのも問題だ。ユーザーの発見と認証のプロトコルであるWebFingerを調べたところ、どうやらユーザーには絶対に変わらない永続URLが必要なようだ。これではサーバーレスな実装は困難だ。
したがって、規模の小さい今はこのままOStatusプロトコルを使うのはいいとしても、早急に別のより優れたスケールするプロトコルを設計すべきだろう。
ただし、この技術的にスケールしないという問題は、実は問題にならないかもしれない。というのも、1インスタンスに数万人もユーザーが殺到するような状況を作り出さなければいいのだ。したらばやRedditのように、ユーザーが自分の管理するインスタンスを立ち上げるようなサービスにして、1インスタンスあたりのユーザーを抑える文化を作り出せば、スケールは問題ではなくなる。たかだか1万に満たない程度のユーザーを処理するならば、どんなに富豪的な設計でも耐えられる。ユーザーがジャンルごとにインスタンスを作り、自治を行う。楽しい世界だ。
例えば支持政党ごとにインスタンスがあり、自民党支持者は自民党インスタンスに、民進党支持者は民進党インスタンスに登録する。そしてインスタンス間の戦争が起き、連結が遮断される。「我々自民党インスタンスは民進党インスタンスとの連結を解除した。これは民進党が我々の党議に賛同しないからである」などといった具合だ。
さて、最後に自由の話をしよう。
マストドン、GNU Socialにとって、自由は極めて重要だ。なぜならばその開発目的が、SNSプラットフォームの独占の打倒にあるからだ。
マストドンとGNU Socialでは、サーバー実装が自由なライセンスであるAGPLで公開されているので、誰でも必要なインフラさえあれば、マストドンでは「インスタンス」と呼んでいるサーバーを建てることができる。あるインスタンスの管理が気に食わないのであれば、別のインスタンスを使えばよい。気に入るインスタンスがないのであれば、自分で立ち上げればよい。これによりTwitterやFacebookのような一企業に独占され、一企業の一存で好きなように検閲される問題を解決できる。
すでに解説したように、大抵のユーザーは自前のインスタンスを立ち上げるのではなく、有名なインスタンスに集中する。大勢のユーザーの負荷に耐えられるインフラを運営するには、企業でしか支えられないほどの資金と労働者が必要だ。すると特定のインスタンスが独占的な地位を得て、ユーザーを囲い込み、外部との連結を無効化するという邪悪に走るだろう。そう考えていた。
たしかにその懸念はあるのだが、現実は違った。そのような鎖国を嫌う文化が生まれていれば、利用者の期限を損ねないように、そのような邪悪を行わないインセンティブが生まれる。
ああ、先見性というのは難しいものだ。すっかり見誤った。
結果として、マストドンは流行るだろう。もうTwitterに独占される必要はないのだ。